──「幻想」に悩むあなたへ ──
「本当の自分」とは何か
「本当の自分がわからない」
「本当の自分は汚い、みすぼらしい」
そう感じて苦しくなることがあります。
けれど、それは実は大きな誤解です。
多くの人が「本当の自分」という言葉を使うとき、
それは「理想に届かない自分」や「誰にも見せたくない面」を指しています。
でも、それを「本当の自分」と決めつけてしまうのは、
自分を冷たく扱う思考の癖なのです。
たんぽぽ ──「本当の姿」という幻想
たんぽぽは、春に黄色い花を咲かせ、夏に綿毛を飛ばし、
やがて地面にぺたんと葉を広げて冬を越します。
この地をはう姿を「ロゼット状態」と呼びますが、
どの季節のたんぽぽも、すべて「たんぽぽ」です。
ロゼット状態を指して
「これがたんぽぽの本当の姿だ」
などとは言いませんし、
根を掘り出して
「これが仮面の下に隠していた真の姿だ」
とも言いません。
花もロゼットも根も、全部ひとつの生命の姿の一部です。
「本当の姿」などというのは、幻想に過ぎません。
それなのに、どうして人は、自分の中の一番嫌いな部分だけを
「これが本当の自分だ」と言ってしまうのでしょうか。
桜 ──「一番魅力的な時期」が「本当の姿」でもいい
一方で、桜を見てみましょう。
たんぽぽと同じく、満開の時期も、葉桜の頃も、冬の枝ぶりも、全てが桜です。
けれど、私たちはしばしばこう言います。
「満開のときのあの姿こそ、本当の桜だ」と。
つまり、人は桜の「一番魅力的な時期を『本当の姿』と呼ぶ」のです。
なのに、自分のこととなると逆をしてしまう。
一番冴えない時期、一番見せたくない姿を「これが本当の私」と思い込む。
同じ「本当の姿」なのに、こんなにも扱いが違うのは不思議です。
たとえ一年のうち、満開の時期が一週間しかなくても、
それが偽りの姿だと言う人はいません。
咲いていない桜や、冬枯れた桜を指差して
「ほら、これが本当の姿だ」と言う人もいません。
ただ「その時期の桜」であると受け入れ、
いずれまた訪れる満開を信じて、思いを馳せます。
「本当の自分」という幻想
私たちの中にも、同じ理屈が成り立ちます。
調子のいいときも、うまくいかないときも、
誰かに見せている顔も、誰にも見せない心の内も ──
それらはすべて、「自分という花のひととき、あるいは一部」に過ぎません。
「作り物の自分の裏に隠された、醜い『本当の自分』がある」
という考え方こそが幻想です。
現実には、「その時々で違う表情を見せる自分」があるだけ。
全部が自分 ── あえて「本当の」というなら「魅力的なところ」を
花にも根や茎があり、また季節によって姿を変えるように、人の姿も様々です。
芽を吹き、花が咲いては散り、あるいは実をつけ、あるいは萎れ、種を落とす。
美しい花、棘のある茎、色気も素っ気もなく泥のついた根 ──
全てが花という存在の一部であるように、
あなたにも様々な姿があって当然です。
だから、「この姿は嫌だ」「こんな醜いのが本当の自分」なんて思うより、
「こんな感じの時『も』ある」くらいに受け流してしまいましょう。
どうしても「本当の姿」が欲しいなら、「自分の一番頑張っている姿」や、
むしろ「あんなのは仮の姿で…」と思っている姿をこそ、そう呼べばいいんです。
まとめ
改めて言います。
「隠されている醜い本当の姿」なんて幻想です。
どんな自分も「全てが本当」であって、
「それこそが本当」ではありません。
どの様な姿も「自分の一部」であって、
「それだけがあなた」ではありません。
あえて「本当の姿」というなら、
「あなたが一番魅力的と思う姿」でいい。
それでいいんです。
ここに灯した言葉を読んで、
もう少し火にあたっていこうと思われたら、
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